正受院(赤ちゃん寺)


文末に昭和3年発行の王子町誌で記載されている正受院の説明文を載せてあります。
古く、江戸名所図会でも、紅葉寺と合わせて当時の様子が紹介されています。
お好きな方は、復刻版として各種文庫本で出版されている江戸名所図会をごらん下さい。

赤ちゃん寺と呼ばれるようになったのは戦後(第2次大戦後)のことであり、その由来をは、
昭和26年、優生保護法が成立して、
昭和29年、東京都の委託を受け、亡くなった胎児・子供の納骨堂を作ったのが始まり。
もともと観音堂があったところで、慈眼堂という。
病院関係で8つの火葬場と契約している。
世界唯一のお寺で、海外から取材が来たことがあるそうです。


快く見学を承諾頂きました住職の正村様にお礼申し上げます。

慈眼堂は訪れる人も多く、お線香の煙が絶えません。
供えられているおもちゃは現代的なもの、ブリキ製の
昔懐かしいもの。色鮮やかな縫いぐるみは子を思う
親の切ない気持ちが伝わってきます。

近藤重蔵は守重といい、明和8年(1771)、江戸に
生まれ、1798年3月、江戸幕府から蝦夷地の調査を
命じられ、エトロフ島まで渡り、現地の開発に尽力した。
北海道、利尻島の探検にも参加した。文政5-9年
(1822-26)までの4年間正受院の東隣に滝野川文庫
という書斎を設けて住んだ。
顔の部分が少し欠けてしまった北方探検家
近藤重蔵の石像です。甲冑を着けた石像は珍しい。
北区教育委員会が詳しい説明を掲示しています。


鐘楼門

デジカメで撮り比べた写真があります。
詳しくは上のタイトルをクリックして下さい。

正受院(赤ちゃん寺)にあります鐘楼門は唐風の素晴しい
デザインです。明治36年建立で、22代住職さんがが台湾に
行って、唐風の門を持ち込んだそうです。

鐘楼門の下をくぐって、ちょうど見上げたシーーンです。
なかなか気が付かないようですが、鐘と突き棒、それに仕切りの枠が
微妙な釣り合いを


王子町誌、王子町編、昭和3年12月出版(引用は昭和53年5月発行復刻版より)では
下記のように説明されています。

瀧不動と紹介されている。
瀧不動尊は紅葉寺の東二丁ばかりの所にあって、寺号を正受院と呼び、寺の後方はやはり石神井川に臨んでいる。この瀧不動と紅葉寺との間を総称して、一般に滝野川の紅葉というのである。江戸名所図会に、“云々。弘治年中和洲竜門の奥に学仙坊といえる僧すみて、不動尊の法を修すること年あり。或時(あるとき)霊夢を得て東国に来り、此所に瀧のありけるを観て是を幸とし、其傍に庵を結びて不動の法を修せり。しかるに其年の秋洪水にて此河夥しく(おびただしく)水かさ増さりしに水中に光あり、水落ちるの後彼の光のさしける」あたりを求むるに不動の霊像を得たり。不測に感得せしを喜び、即ちここに安置し奉るとぞ。堂後の坂路を下ると、飛泉があって不動の瀧と称する。いまでは瀧の水も枯れがちで、あたりの容子(ようし、注:様子のこと)も荒廃しているが、名所図会の挿絵を観ると、飛泉の前には腰掛台に煙草盆なども出ていて、絵の註に、飛泉あり滔々(とうとう)として峭壁(しょうへき)に走る。此境は常に
蒼樹蓊欝(そうじゅおううつ)として白日を支え、青苔露なめらかにして人跡稀なり。”とあって、瀧のさまも仲々趣きがあったように伺われる。

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